フレキシブルな環境の希求とスランプの突破について

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

村上春樹の遠い太鼓を読んだ。この本は、村上春樹が1986年から1989年までの約3年間ヨーロッパに住んだときの記録である。いまの時代、どこでも仕事ができるようになることが多いけど、現実的には、大組織や心理的な縛りがある。小説家というプロフェッショナルが世界中のどこでも仕事ができて、生産席な成果物がだせる姿を読むとすごくいいなぁと思う。

P242 の「午前三時五十分の小さな死」が特に印象的である。
長い小説を書くという行為は村上にとって非常に特殊な行為であるとのことだが、だからといって不滅の傑作を作りたいというわけではない。

ピアツァ・カプールに面したカフェに座ってエスプレッソを飲み、まわりの風景を眺めながら、僕はふと不思議な気持ちになる。僕はこう思う。今ここを歩いている人々は、百年後にはもう誰一人として存在してはいないのだ、と。(略)
いやそれはそれで構わないんだ、と僕は思う。もし百年後に僕の小説が死んだみみずみたいにひからびて消え去ってしまったとしても、それはそれで仕方ないのだと僕は思う。(略)
僕がもとめているのはほんの今現在のことなんだ。この小説を書き上げるまで何とか生かしてほしい、ただそれだけのことなのだ。

すごく小説を書くことが好きなんだなぁと思う。そうやって「ノルウェイの森」が百何万部も売れたあとの村上が印象的である。

文章を書こうという気持ちがわいてこなかった。ハワイから帰って、夏の間ずっと翻訳をやっていた。自分の文章がかけないときでも、翻訳はできる。他人の文章をこつこつと翻訳することは、僕にとっては一種の治療行為であるといっていい。それが僕が翻訳をする理由のひとつである。

という。僕はこういう極度の疲労になると、仕事から離れたくなるのだけれど、翻訳のようなコツコツと向き合いながら、仕事が進められ、(おそらく自分の能力の向上につながり)、仕事も前進させられるものを見つけたい。